はじめに
前提
この文はドラゴンクエスト ユア・ストーリーを「肯定」している筆者が、二度目の鑑賞の後自分の納得を形にするために、改めて感想をまとめたものである。
ご覧頂くにあたり、いくつかの前提がある。
賛否が凄まじく両極端に分かれている当作品、自分は「もはやこの作品が好きなのは世界に自分だけでも構いやしない」くらいの領域に達してしまっている「完全肯定派」である。
以下のインタビュー記事に基いた考察を行っている。 www.cinematoday.jp
筆者が初見の数時間後に書いた1つ目の記事はこちら。 kakuzetsu.hatenablog.com
本文ではこれらを踏まえたうえで、主にこの映画を鑑賞して「自分は何に納得したのか、作り手達から何を受け取ったのか」を語り尽くす。
本文
納得へ至る過程
ゲームは人によっては何十時間もやるメディアですから感情移入の幅が半端ない。それを映画という技法で対抗するのは難しいなと。そもそもゲームを映画化してうまくいった作品をあまりよく知らないので
山崎貴総監督のこの言葉を、自分はとても好意的に解釈している。
例えば、この映画にメタフィクションのオチがなく純粋な「ドラゴンクエストVの映画化」として終わっていたらどうか?
V以外の作品からも多くのBGMを節操なく使い…
主要キャラについては約2時間という枠に収めるためとはいえ様々な改変を行い…
そもそも原作においては何の色もないはずの主人公にやや難のある性格を付与し…
そのように表現された代物を「ドラゴンクエストVの映画化作品」として認めることなど、本当にできるのか?
あのままメタに突入せず「ドラゴンクエストVの映画化頑張りました!どうですか~!」と言われて、納得できるのか?
自分は否である。
これを認められる人はきっとXIやビルダーズ2における数々のBGMの使われ方も「ファンサービス」として好意的に解釈できるのかもしれない。
自分は、このドラゴンクエストVを原作とした物語が「フィクションの中のフィクション」として解決できるからこそ、前述のような「ドラゴンクエストVとしては納得しかねる部分」についても目を瞑れるのだ。
前回の記事にも同様のことを書いたが
「作中の主人公がいつか遊んだドラゴンクエストV」と
「作中の主人公が『ドラゴンクエスト エクスペリエンス*1』で追体験しているドラゴンクエストV」と
「現実のドラゴンクエストV」
これらが同一のものであるという保障は、どこにもされていないという理屈である。
この表現の形を「逃げ」という人もいるかもしれない。
だが、ここにこそ、自分にとっては重要な意味があった。
何故ならば、「この映画におけるドラゴンクエストV的表現=ドラゴンクエスト エクスペリエンス=フィクションの中のフィクション」としたことは「"ドラゴンクエストV"はあなた達の体験こそが"本物"である。」と言ってくれているに等しいからだ。
安直にゲームのダイジェストにしようだとか、映画でゲームを超えようだとか、妥協もしなければ無茶もしない、想い出を上書いたり汚したりはしない、その代わり「違うもの」を込めさせてもらう事にした、というだけの話である。
だからといってそれを盾にしてドラゴンクエストV的表現において手を抜いているだとかそういうことは一切なかった、充分納得のいくものだったと、今は言うことができる。もちろん、映画である以上一定の尺に収める必要があること前提とせざるを得ないが。
原作にしっかり根をおろした重厚長大な表現は、他のコンテンツ、それこそ「漫画」や「小説」のように時間的物量的制約が緩めのものでじっくり行われてこそだと思う身としては、「映画」としてただただ納得できる形なのである。
「あなた達のゲームでの原体験を、何よりも尊重する。」
作中の主人公に対しても、スクリーンの前の人々に対しても、こう述べてくれている。
ゲームを愛する者にとってこんなに嬉しいことはない。
受け取ったメッセージと『愛』について
自分が堀井雄二から受け取ったと感じたメッセージは、前回の記事とほぼ変わらないのだが、より厳密に言うならばこうだと今は考えている。
「ドラゴンクエストを題材とした、ゲームとその想い出に自分なりの『愛』を持っている人の肯定」である。
改めて言うが、この映画の主人公は色々と言動が鼻につくところがある。ブオーンに死か忠誠かなどという台詞を吐いたり、キラーマシン(※ノベライズよりメタルハンターであることがわかったため追記しておく)をロボットと呼んだりするなど、正直見ていてあまり良い気持ちはしない。
この主人公が、自分の思い描いていた「ドラゴンクエストVの主人公とあまりにも違うこと」にウンザリする気持ちは理解できる。
だが考えてみてほしい。何故主人公をわざわざ「そんな奴」にしたのか?と。 何故ごく普通にドラゴンクエストVの世界観にマッチしそうな性格のキャラにしなかったのか?と。
その理由は、「そんな奴でも、ゲームに没入して花嫁選びを本気で考えたのは紛れもない事実だし、主人公の名前を「リュカ」に決めているといった『愛』を持っている」ということを、強調して表現したかったからではないか。
『愛』の形も量も人それぞれ。それを誰かの基準ではかって『愛』があるとかないとか、そんな事を論じるのは無粋であり、ましてや否定する権利など誰にも無いのである。
ゲームに対して『愛』を持つ者として対等な目線で見れば、ミルドラースに擬態したウイルスに対し感情を露わにする主人公は、「ゲームで遊ぶことを嘲笑されるなどといった社会的理不尽に見舞われ、憤った経験が少なからずあるが、それでもゲームを愛している自分自身」と完全に重なるのである。*2
しかしながら「これは本当にドラクエでやる必要があったのか?」という意見はもっともである。例えばドラクエ以外のゲームでこの構成の映画が作られていたとしても、恐らく自分は同様に納得していただろう。
ただシンプルに「ゲームを愛する人の肯定」をしたいのなら、ドラゴンクエストVを題材にする必要性は無く、もっと別なやり方もあったかもしれない。あんな宣伝をしたら「ドラゴンクエストVの映画化作品」にみんな期待するに決まっている。そんなこと、作る側がわかっていないはずがない。
我々を試しているとすら言ってもいいようなこの内容でこそ映画化しても良いというのだから、堀井雄二は本当にとんでもないクリエイターである。それを良い意味で捉えるか、悪い意味で捉えるかは人によって様々だろう。
映画化作品として感じたこと
ここまでの話からして、「作中の主人公が『ドラゴンクエスト エクスペリエンス』で追体験しているドラゴンクエストV」と
「我々が生きる現実に実在するドラゴンクエストV」を比較する意味は、ハッキリ言ってあまり無いと考えている。
「フィクションの中のフィクション」という前提が強すぎて、演出も設定もそれに基いて作られたものが多く、結局そこに帰着して論じることになってしまうからだ。
だがそれでもドラゴンクエストVをかつてプレーし想い出を心に刻んでいる一人のファンとして、本作の大部分を占めるパートを「ドラゴンクエストVの映画化作品」として見ようとしたときに、どう感じたか。良かったところや、イマイチだったところを列挙していく。
比較的原作ベースで映像化してもらえたと感じたところ
ドラゴンオーブ(原作のゴールドオーブ)のすり替えのエピソード
欲を言えば
「坊や、どんなに辛いことがあっても負けちゃダメだよ」
「お父さんを大切にしてあげるんだよ」
この台詞はもう少し原作に準拠してほしかったところ。装備やモンスターの造形
公式ガイドブック下巻 知識編を延々と読んでいた身としては感慨深いものがあった。
メタルスライム、キングスライム、踊る宝石、ドラキー、etc...
ワンシーンでしか出てこないモンスターの造形までも、非常にこだわりを持って作り込まれていると感じた。フローラのお淑やかながら芯があると感じられる性格
いたストSPでの悲惨な性格改変の犯人はこの作品を100年見続けて悔い改めてほしい。
好意的に受け止められる改変や演出
プサンの設定や風貌
原作の走り続けるトロッコから何故か降りられずグルグル回っている変なリーゼントのおっさんより遥かに説得力がある。最後の戦いでのヘンリーとラインハットの兵士達やブオーンの増援
作中で取り扱った様々な要素をきちんと活かす構成であると感じた。
ゆえに、サラボナでいきなりブオーンが出てきて戦い仲間になるという大幅な改変自体も、後々になって納得できた。バギクロス
原作ではそんなんとっくに覚えているはずだし決め手にはならないだろうとかそんなツッコミを入れる気にもならず、ずーっとバギマまでしか使ってこなかったところからのあのような演出が純粋に好きだ。
バギムーチョを唱えだしたらどうしようかと思っていたが安心した。
イマイチだった点
別作品からのBGM使用
例え「フィクションの中のフィクション」という前提があっても、これだけは本当に気になってしまう。ビルダーズ2もこれが全く受け入れられず辞めてしまった身としては、ここが個人的なドラゴンクエストのキモなんだろうなと感じている。
ただこれも「ドラゴンクエスト エクスペリエンスにはBGMカスタマイズ機能があり、係員とのやり取りの前に主人公はそれを済ませていたのかもしれない」という解釈をすれば一応の納得は可能な部分である。
また今となっては「ドラゴンクエストをよく知らない人に向けたBGMの紹介」として多少好意的に解釈するのも悪くないと思っている。プログラムとしてのフローラの挙動に対する納得感の低さ
今回はフローラを選ぼうと心に決めた主人公の言動に反応して、ドラゴンクエストエクスペリエンスそのものが自己暗示プログラムなるものを作り出した。主人公はそれにかかっているにも関わらず、フローラがおばばに変身して「主人公が本来はビアンカ派である事」に気づかせようと画策した点は、やや疑問が残る。商業用のシミュレータで、最初に設定した内容を覆すようなことをプログラムが働きかけてくるのは良しとされるだろうか?という疑問である。
「『そういうものもエンターテイメントとして受け入れられるような現実世界』をフィクションとして描いている」としか言いようがない部分なので、これは堀井雄二からの「映画ではビアンカかフローラか、再び論争を呼ぶくらい観客を迷わせてほしい」というオーダーに応えるための策であり、どうしてもサラボナ以外で動かしてあげるのが難しいフローラに役どころを与えるための演出先行の部分であって、納得のいく根拠を描ききれなかったのかもしれない。
好意的に解釈するならば、これも「ドラゴンクエストVの花嫁選びとかつて真剣に向き合った自身の気持ち」はごまかしたりはさせない、というメッセージ、といったところだろうか。最後の戦いで主人公の一振りで瞬殺されてしまったジャミとゴンズの扱い
仲間の誰かと戦って倒されるなり、もう少し丁寧な描写が欲しかった。「クエスト」「今回」などと言ったわざわざメタを匂わせる台詞回し
一時的に記憶を無くしドラゴンクエスト エクスペリエンスに入り込んでいるという設定があるのにも関わらず、どのキャラもわざわざこういった台詞回しを行うことへの必然性を感じなかった。
流石に何の前触れもなくラストの展開に持っていくのは気が引けたのだろうか…。
あとがき
この映画に込められたメッセージを受け取った中にも「何を今更」と感じた人もいると思う。
しかし、そのような批判意見は、正直言って読むと安心する。
少なくともその人は「ゲームの体験や想い出など無価値なものだ」と断じるような人がいない環境で、これまで過ごしてきたと考えられるからだ。
だがそういう人たちはともかく、世の中にはまだまだゲームに対する残念な偏見が溢れかえっている、というのが個人的な感覚である。
知名度あるドラゴンクエストの産みの親である堀井雄二が「ゲームを否定する存在をロトの剣でぶった斬る」という表現でメッセージを発信してくれただけで、この映画には大きな価値があったと自分は考えている。*3
ここに記した文章もまた、ひとつの『愛』の具現化であること、ご理解頂けたら幸いである。
*1:劇中では「DRAGON QUEST EXPERIENCE」と表記されている。
*2:なおそういった理不尽に見舞われた経験のない幸せな人にとっては、当然のことながら全く共感できない部分だろう。
*3:その部分から焦点のズレた論争が散見されるのは残念でならない。